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2016年6月15日水曜日

『屍者の帝国』映画と原作とEGOISTの鎮魂歌と

屍者の帝国 (河出文庫)


作者急逝による未完の絶筆小説『屍者の帝国』をその友人作家が引き継いで書き上げ完成された数奇な物語である。ということはあらかじめ予備知識として知っていたように思う。
それとも作者表記がおかしい。と思ったことがそもそもの始めだろうか。共著かな。と思って調べたのかもれない。もしくはあまりにも話題性に富んだ作品のことはネットででも目にしていて、書店の本棚に並んでいたものを「ああこれが」と思って手に取ったのかもしれない。今となっては思い出せないが勿論そんなことはどうでもいい。

伊藤計劃が冒頭の30ページだけを書いて死去。
その後を友人作家である円城塔が引き継いで書き上げた作品の名前が『屍者の帝国』

手に取った当時は、ありえない。と思っていた。
ただただ感情的にそんなことがあってもよいのか、と。

そんなことを思いながら、手に取った作品を書店で購入。
原作を読み、立て続けに映画を鑑賞して、私は呆然としている。
だって鳴りやまないんだEGOISTのdoorが。




数えた 残された時を
そして目を開けるあなたは
夢見たあの日の場所で
願いを遂げて 
作詞・作曲ryo(supercell)2015年11月11日「リローデッド」収録「door」より


なんだこれは、鎮魂歌ではないか。
EGOISTの「door」は確実に死者への祈りの曲だし
円城塔が引き継いだ原作も
原作を改変して制作した映画も
すべてがひとつの鎮魂歌ではないのか。


原作を改変した映画『屍者の帝国』



映画『屍者の帝国』の成り立ちとしては原作の世界設定を生かしつつも
かなり思い切った改変に出ている。

原作
・伊藤計劃の絶筆部分オープニング30ページ
・円城塔が続きを書いた原作小説
・円城塔によるあとがき

映画
・原作登場人物の関係性を思い切って改変。
従僕(筆記係)でしかなかったフライデー(屍者)を主人公ワトソンの親友とし
主人公は亡くなった親友を禁忌を犯しつつも蘇らせ
ワトソンは、フライデーの魂をひたすらに追い求める。
【チラシ2種付映画パンフレット】 『屍者の帝国』 出演(声):細谷佳正.村瀬歩.楠大典
↑映画版フライデーの美しいビジュアル。

求めたのは、21グラムの魂と君の言葉

という映画版のキャッチコピーが語っているように
映画は主人公ワトソンと亡くなった親友フライデーを巡る物語だ。

視聴者はフライデーとワトソンに、伊藤計劃と円城塔を重ねずにはいられない。
失われた伊藤計劃とその原稿と。
物語の続きを書く事によって失われたものを求める円城塔。



画としての『屍者の帝国』



映画としての出来はどうかと問われると、全体的にまとまりに欠けると言わざるを得ない。

フライデーの魂を追い求める主人公に説得力がないのだ。
生前の二人の関係がもっと書かれていたならば
ワトソンがフライデーを求める切実さが浮き彫りに出来たと思う。

魂を求める割には、生前とは別物になって(魂が抜けて)無反応になっている屍者のフライデーをあまり大切にしていないような描写も気になる。魂が戻ってきても入れ物としての屍者のフライデーが損なわれてしまっては元も子もないのに。それに無反応のフライデーを丁寧に扱い、生前にしていたかのように語りかけたりすれば、もっと切実さをともなった狂気が垣間見れて良かったのではないかとも思う。

しかし映画にワトソンの行動原理となる根拠の部分(生前のパートの少ないこと少ないこと!)
が書かれることはない。
だって原作にない部分だから。
おそらく、それらをやってしまったら全くの別物になってしまうという危惧はあったのだろう。

結局は原作を尊重した余りに、
伊藤計劃の絶筆部分と円城塔の続編部分と映画との間に乖離が起こっていて
まとまりに欠けた作品になってしまっている。

屍者の帝国 (完全生産限定版) [Blu-ray]
それでも激しく心は揺さぶられる



映画として完成度は高いは思わなかった。
私は原作の部分を自分で勝手に補完しながら映画を見たに違いない。
そしてフライデーとワトソンに伊藤計劃と円城塔も重ねつつ。

「わたしは、ただ君にもう一度会いたかった。
 聞かせてほしかった。君の言葉の続きを。」



あまりにも切なかったのだ。
亡くしたものものへの思慕が。
自分の身にも覚えのある喪失の痛み。
失われたもの損なわれたものは二度と戻らないという残酷な世界の理。
これは、誰もが持ちうる痛みだ。
ただ君にもう一度会いたかった。






映画と原作のラストについて



ラストについて言及してしまうとかなりのネタバレになってしまうので、ほんの少しだけ。

やはり、私は失われたものは戻らないのだと思う。
21グラムの魂は永遠に消失してしまうのだと思う。

伊藤計劃の書く予定だった『屍者の帝国』を決して読めないように。
円城塔の書いた物語が新しい『屍者の帝国』となったように。

円城塔の綴った屍者の帝国も映画の屍者の帝国も悲しみに満ちていたけれど
美しい鎮魂歌でもあり、新しい何かを模索した結晶でもあったように思う。
最後のフライデーの語りで、世界は反転して新しい地平が見えるように。

ずっとフライデーが伊藤計劃だと思って一緒に物語を旅していたけれど。
果たしてフライデーは誰であったのか。
フライデーが語りかけるありがとうとは誰に向けての言葉なのか。

EGOISTのdoorが心に染みます。


<
屍者の帝国というコンテンツ



最初、私はありえない。と思っていた。
ごくごく個人的な作業であるところの執筆という行為を他人が引き継ぐということを。
さらに映画化した作品は登場人物の関係性を改変しており
ワトソンとフライデーに伊藤計劃と円城塔という作家を重ねて見ることを
むしろ強いられていることを。
そのようにして組み立てたコンテンツを商業として売り出すことを。

ありえない。と思って手に取った原作本を読み。その勢いのまま映画を見て。
なんということだと呆然とした。
私は今何を見たのだろうか。

ありえないだとか冒涜とかだという感情的な批判までも呑み込んだ
圧倒的なコンテンツとして屍者の帝国は存在していた。

コンテンツ自体が追悼であり鎮魂歌であり
伊藤計劃の屍者の帝国を世に出さねばならぬといった意志の熱量であり
広義の意味での愛情であったのだと思う。
伊藤計劃によって書かれるはずだった屍者の帝国とは違う作品になっているにもかかわらず
作品のいたるところに伊藤計劃の存在を感じる。
もうそこにはない21グラムの魂を。



最後に伊藤計劃の言葉を彼のブログから引用して終わろうと思う。


そしてわたしは作家として、いまここに記しているようにわたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。
 これがわたし。
 これがわたしというフィクション。
 わたしはあなたの身体に宿りたい。
 あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。 

 初出:〈WALK第57号〉2008年12月1日発行
「特集 物語の手触り──なぜ物語は求められるのか?」寄稿エッセイ